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尚ちゃん生誕祭ライブ放映決定。BSフジで5/29。

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昨年末、多くのファンと豪華ゲストに支えられ、大盛況の内に幕が下りた藤井尚之生誕50年祭。豊洲PITで催されたそのパーティライブが、5月29日(金)BSフジ22時よりオンエアされる。さすがにノーカットとはいかないが、2時間弱の枠があるので充分満足できる内容になっているはずだ。チェッカーズファンには垂涎モノの「チェッズ(命名藤井兄)」コーナーもたっぷりとご覧いただけることだろう。

先月、この「チェッズ」コーナーのミックスダウンをしていて、ドラムが(平里修一くんには大変申し訳ないけれど)クロベエさんだったなら、、と思わずにはいられなかった(私は修一くんのドラムも人柄も大好きである。このライブでも素晴らしい演奏を披露してくれていたことは言うまでもなく、他意のないこと、ご理解いただけたらと強く願う)。普段のソロライブの時と違い、享さん裕二さんがバックにいるだけで、声だけでなく顔つきまでもが若返っていた藤井兄。ここにクロベエさんがいたら、、、フミヤさんはどんな郁弥さんの姿で唄ったのだろうかと、つい虚しい空想をしてしまった。

そんなわけで、このライブから話は逸れるが、クロベエさんとの思い出を書かせてもらう。もちろんチェッカーズ時代のことである。

あれはアルバム「I HAVE A DREAM」のレコーディング中だったから、1991年の2月、バブル景気が膨れ上がったまま、まだ弾けていなかった頃。当時のスタジオワークは深夜に及ぶこと日常で、朝日を拝みながら帰ることも珍しくはなかった。そんな風潮の中、チェッカーズのレコーディングは常に健全で、毎日決まって23時には終わっていた(スタートは13〜14時が多い)。

ある日の23時過ぎ、いつものようにみな三々五々帰っていく中、クロベエさんが近寄ってきた。
ちょっとドラム叩いとってよかとね?(久留米弁が間違っていても、それはご勘弁を)」
どうやら居残りで自主練習したいとのことだった。一口坂スタジオに入社してアシスタントエンジニア歴1年とちょっと、当時21歳でまだまだ新米の私に断る権利があろうはずもない。

アシスタントエンジニアの仕事は、一番早くスタジオに入り、滞りなくレコーディングを進め、戸締まりをして一番最後にスタジオを出る、というのが一日の業務である。なので、もしクロベエさんが朝までドラムを叩き続けたとしても、とにかく終わるまでは帰れない。

ただボーっと待っているのも退屈なので、私はドラムにマイクを立てて録音のマネゴトを始めた。多くの他のアシスタントエンジニアと同じく、私もコンソールの前に座るメインエンジニアになることを夢見ていた頃だ。クロベエさんが練習で叩くドラムで、音を録る練習をさせてもらった。そう、私が初めて録ったドラムはクロベエさんの音なのである(あくまで練習で世に出たものではないが)。それをクロベエさんに聴いてもらうべく、カセットテープに録音した。

1時間ほどして、汗を拭きながらコントロールルームへとやってきたクロベエさんは、
もう終わるけん、遅くまでゴメンネ。車で送ると。どこ住んどるとね?」と言った。

この思いもしない言葉に、私は少々狼狽えた。確かに終電の時間は過ぎていたが、会社からタクシーチケットが支給されるのでひとりで帰ることはできるし、そしてなにより車内で気まずくならないか_____相手はスタジオで何度も会っているとはいえ、一対一でちゃんと話したことなどないチェッカーズのドラム担当者なのだ_____閉じた空間にふたりきり、市ヶ谷(一口坂スタジオ所在地)から下高井戸(自宅)までおおよそ30分の道のりは、若輩の私にはちょっと荷が重いのではないか、、、でも折角の親切心を無下に断るのも、、、など頭の中でグルグルと渦巻いた。

結局、断る勇気よりも送ってもらう勇気に軍配が上がり、借りてきた猫のようにちょこんと助手席に座った。車が走りだしてから少しして「普段どんな音楽聴くとね?」と尋ねられた。その時の自分がなんと答えたかハッキリとは憶えていないが、たぶんポリスとかU2とか、そんな感じだったと思う。

そんなたわいのない話を乗せた車が新宿通りへ出て赤信号で止まった。忘れもしない四谷見附の交叉点だ。クロベエさんはカーステレオを操作しながら「オレね、これ好きちゃね」そう言いながら曲をかけた。

ラ・ムー知っとうと?

何年か前にデビューした菊池桃子のロックバンドだ。名前だけは知っていたので「まあ、、、」と曖昧な答えをした。シングル曲くらいは耳にしたこともあっただろうが、興味の対象からは遠いところにあるものだった。

この唄には魂があるけん

その後はずっとラ・ムーのアルバムをBGMに、いかにラ・ムーが、いかに菊池桃子が素晴らしいかという、クロベエさんの独演会となった。その間、私はボーっとただ相槌を打つだけであった。もしかしたら寝てしまっていたかもしれない(アシスタントエンジニアは常に寝不足なのだ)。

後日もう一度同じような状況で送ってもらったことがある。その時もやはり「ラ・ムー」だった。いまもクロベエさんを思うと、あの翳りのない笑顔と菊池桃子の声が甦る(もちろんスタジオでドラムを叩いている姿も目に浮かぶが)。誰にも話さず一生を終えるかと思っていたが、4人のチェッカーズを観て、どうしても書き残しておきたくなった次第である。

いつの間にかクロベエさんの歳を追い越してしまいましたよ。あの時渡したカセットテープは聴いてもらえましたか?